その人になってもきっと見れない景色
私へ
はじめてニューヨークに行ったとき、ノイエギャラリーという場所でグスタフ・クリムトの絵を見た。
それは代表的な人物画ではなく、点で描かれたような緑が生い茂る風景画だった。
どういう景色なのか、想像しようと、クリムトはどういう景色を見てこの絵を描いたのか、いつものように、見てみようとした。
だけど、私はできなかった。まるで分からなかった。
点で描かれた先が見えない。考え、感じようとしてもこの緑の景色の先が見えなかった。
そして、ふと、
ああ私にはきっと一生見ることのできない景色をクリムトは見ていて、例え私が同じ景色を見たとしても、こういうように描くこともできなければ、感じることもできない、
そう思ってしまった。
見たいのに見れないというのは、はじめてで。
この緑の景色に全く触れられないことが悲しくて、悔しくて、寂しくて、なぜか涙が次から次から溢れてきたことを私ははっきり覚えている。
仮に私が景色のそこに、立てたとしても、こういう感じ方はできない。
見ることのできないものが広がってること世界があることに気づいてしまったのだった。
そして、今日似たような経験をした。
この1枚。超特急のカイくん。
わたしはこんなカイくんを見たのははじめてだった。
こんなに優しく、楽しそうに、可愛く笑うカイくんの表情。
聡明でアンニュイなイメージがあったカイくんがこんな風に笑う、どういう景色を見て、どういう気持ちだったのか、私には分からなかった。
楽しそう!だとか、それだけじゃない何かがありそうなのに、何かが分からない。
あるのか、ないのか、カイくんだけが知っている。カイくんにしかきっと分からない。
私がカイくんになり、この景色、この場所に居たとしても私は絶対こんな表情ができないのだ。絶対に。
そういうのは当たり前なのだけど、知ろうとしても知ることができない世界があるというのを目の当たりにすると、何ともいえない気持ちになる。
その人になっても見れない景色。
どういう景色だったのか考えるだけで泣きたくなる。
けれど、教えてもらったところで、きっと知らない。
その人になったところで、きっと見れない。
寂しいけれど、その共有と絶望は、なんとなく私の世界には必要な気がする。